今日は、私と同じ大学だった高野悦子さんの足跡を追うウオーキングをしました。
彼女の残した日記である「二十歳の原点」を読んだ私は、当時大きな衝撃を受けました。
今でも当時のことは昨日のことのように鮮明に覚えているのですが、35年以上の時間を経た今、当時の様子を残しているものはほとんど残っていませんでした。
それでも、彼女の足跡を追いながら私の胸は次第に高鳴ってきました。

本日のウオーキング歩数、51,419歩。

2006年2月12日(日)




「♪友よ〜 夜明け前の 闇の中で〜 友よ〜 闘い〜の 炎を燃やせ〜♪」
などと懐かしい歌を口ずさみながら、速歩。
茶畑が見えてきました。



向島に近いスーパー前通過。
パトカーが何台も停まり、拘束された少年が写真を撮られていました。
何があったのかはよく分かりません。



ドンドン北上。
観月荘を見ながら観月橋通過。



御香宮前通過。



栄春寺前通過。
この總門は伏見城の遺構です。



藤森神社前通過。



名神高速高架下・京阪電車藤ノ森駅の横を通過します。



水が流れていない疎水沿いをひたすら北進。



伏見稲荷大社の踏み切り着。
電車の通過を待ちます。



伏見稲荷大社前通過。



東福寺境内へ。
こんな石碑がありました。



天得院。
この寺の住持であった文英清韓長老が京都大仏があった方広寺の鐘名を書いた際、その文中の「国家安泰、君臣豊楽」の文字が徳川家を呪詛するものとしてこの寺は取り壊されてしまいます。
天得院はその後、再建されました。



説明板。



東福寺を後にして北上。
「伏水街道第三橋」の文字が。
この下の三橋川は、御壺瀧大神境内を流れ、東福寺の通天橋など境内の3つの橋のを通過してここに流れてきているのです。



三橋川の清流。



北上を続け、JR下通過。
この貨物列車の先頭車両には「桃太郎」と書かれていました。(*^_^*)



京都タワーが見えてきました。
そろそろ昼食にします。



たかばしの「第一旭・本店」で昼食。
こうして写真で見たら、今にも落ちそうな位置にラーメンの器がありますね。(^_^;)
でも大丈夫でしたがね。
このラーメンは「肉なし・大盛り・ネギ多め」で550円。
安くてうまい!



昼食後、輪形地蔵へ。



説明板。



河原町通りを北上。
35年前には、ここを市電が走っていました。
私はその市電で、京都駅〜河原町広小路間を通って大学に通っていました。
当時のその区間の市電運賃は15円。



定期が切れ、おまけにお金がなくて市電の回数券が買えない時にはこの道をよく歩いて大学まで往復しました。
この土塀は何だろうなあって当時は思っていました。
枳殻亭・渉成園の土塀だったんですね。
そうそう。
その当時、そうして交通費がなくても食費だけはしっかりと財布に温存していました。
大学生協の食堂ではその頃、うどんが30円くらいだったと思います。
定食でも100円前後で、食堂に「たまにはささやかな贅沢を」と書かれた特別メニューもありました。
特別メニューは普通の定食より30円ほど高いのですが、それでも当時の私には輝くような素敵なメニューに見えました。
もちろんお金がないので、私はそんな「ささやかな贅沢」はほとんどできませんでした。



文子天満宮に寄ってみます。



説明板。
ここは何と!
北野天満宮の前身だとも言われているようです。



境内の文子像。



文子天満宮を後にして市比賣(いちひめ)神社へ。



境内に湧く名水・「天之真名井」(あめのまない)。




市比賣(いちひめ)神社を後にして、牛若丸と弁慶が出会ったとされる「五条の橋」(現在の松原橋)を渡ります。



鴨川のユリカモメ。



鴨川沿いから外れて東進。
色んな名前の焼酎があるんですね。(@_@;)



花町・宮川町通過。



円山野外音楽堂を目指します。



レトロチックな雰囲気が漂う円山公園近くのレディスホテル。



円山野外音楽堂着。
立命館大学に入学した1967年のメーデーに高野悦子さんは参加します。
「メーデーを知るためにメーデーに参加したのです。全学連でも何でもよかったのです。」(1967年5月2日)
「労学総決起集会」などもここで開催されました。
彼女はここにも何回か足を運んでいるはず。



音楽堂の中には入れませんが、当時のままと思われるベンチ式の椅子が見えています。
彼女もこの椅子のどこかに座っていたことでしょう。



円山野音を後にして更に北上。
ん?新撰組が。



円山公園内を北上。



知恩院へ。



知恩院前通過。



川端通りを北上。
荒神橋に近づくと胸が高鳴ってきました。



とうとう荒神橋が見えてきました。
悦子さんもきっとこの風景を何度となく見たはず。
彼女に会えるわけなど絶対にあり得ないのに、胸の鼓動は益々高鳴ります。



荒神橋を渡ります。



荒神橋。



荒神橋から北山方面を望む。



鴨川右岸。
立命館大学広小路キャンパスには運動場がなかったので、ここ鴨川右岸に小さな運動場があって学生はそこで体育をしていました。
私も。
そして悦子さんも・・・・・・。
正確な場所がどこだったかは、残念ながらもう思い出すことができません。



ジャズ喫茶「しあんくれーる」があった場所。
「しあんくれーる」というお店の名前は「思案に暮れる」ということばから付けられましたので、かたかなでは書かずにひらかなでした。
荒神口(こうじんぐち)と標識がある向こう側、ねずみ色の車が停まっている辺りに「しあんくれーる」がありました。
午後買物と用たしに出かけ、あとシアンクレールに落着いてしまった。」(1969年3月10日)
「給料をもらって久しぶりに金ができたので、シアンクレールに行った。」(1969年5月7日)

彼女の日記から、頻繁に「しあんくれーる」に通っていたことが分かります。
今はもうジャズ喫茶「しあんくれーる」は存在しません。



「しあんくれーる」があった場所より少し北。
広小路キャンパスとは河原町通りを挟んで少し離れた場所にあったここも立命館大学の建物でした。
確か「恒心館」という名前だったように思います。
ここも当時は封鎖されていた時期がありました。
機動隊突入間近の日に私が行った際には、「もうやめようや」という教授連の言葉が聞こえてきましたが、その少し後に機動隊が突入し学生側に大きな被害が出ます。
機動隊の突入は大学側の要請があって初めてできること。
「やめようや」って言いながら学生側の要求に何もこたえないままの警官隊導入という大学側の対応に、当時の私は大きな不信を感じたものです。



いよいよ、旧・広小路キャンパスへ。
かつてのキャンパスは、一体どうなっているんだろう・・・・・。



「立命館学園発祥之地」の碑が。
初めて目にするものです。



碑には当時の建物の配置が!
そう、この通りでした。
研心館、存心館、恒心館、中川会館などなど・・・。
どこの建物の何て名前だったかは詳しく記憶がないのですが、建物の配置はとってもよく覚えています。
何てたって、私はここ広小路キャンパスにはは8年間も籍を置いていたんですもの。
もっとも籍を置いていたものの、あんまり大学には行っていませんでしたがね。



旧・広小路キャンパス内に入ります。



立命館大学の建物があった場所に今は建物の姿は見えません。
奥へ向かいます。



見知らぬ場所を歩く雰囲気でしたが、ここに来て安心しました。
この右側の緑の木の向こう側が櫨山寺の敷地。
そしてこの道の左側で今は植え込みになっている場所が、かつて私が授業を受けていた建物があった場所でした!



広小路キャンパスは、今ではこんなものに変わっています。
旧・広小路キャンパスを後にします。
高野悦子さん、そして私。
数え切れないほど多くの学生が青春時代を過ごした立命館大学広小路キャンパスは、今はもう存在しないのです。



西進しながら広小路キャンパス跡を振り返ります。



梨木神社前通過。



「御所の細道」を歩き西進。



御所の梅林はまだ花が咲いていませんでした。
この冬の寒さを実感。



アオキ書店跡。
今ではマクドナルドになっています。
「アオキ書店で、スープの本とカクテルの本を立ち読みした。少し勉強したぞ。でも、初めてサーバーを使って料理を運んだが、料理の名も知らなかったことがウエイトレスとして恥ずかしい」(1969年4月18日)
「青木書店にいって、お料理の本、ジャズの本、詩の本、写真の本を立ち読みしまし、「現代の理論」と「海」を買いました。」(1969年5月22日)
彼女は、京都国際ホテルでウエイトレスのアルバイトを始めます。
メインダイニングで働きましたが、仕事が終われば宴会場のピアノを弾いたり同僚とお酒を飲んだりしていたこともありました。



ドンドン西進。
「今何時?」って思って見上げた時計。
これって一体!?(>_<)



西進中、こんなものを見かけました。



平安京の図です。



丸太町御前着。



丸太町御前にある小学校。
彼女は丸太町御前にあるアパートに転居します。
「暖かい春の陽が部屋に満ちており、前の小学校では真白い運動シャツと赤い帽子をかぶった小さな子ども達が走り回っています。」(1969年4月22日)



今の私には、彼女が過ごした「川越宅」がどこにあったのか探すことは不可能。
この付近に越してきた後、たった3ヶ月足らずで彼女は帰らぬ人となります。



丸太町御前から、高架のJR嵯峨野線沿いへ。



天神踏切跡着。
この南北の通りが天神通り。
地元の人がおられて、その方から当時の踏み切りの様子を聞くことができました。
「踏切って言っても車など通れない、人が通るのがやっとの狭い踏み切りだった」って教えてもらいました。



天神踏切跡交差点から西を望む。
この20mほど先が悦子さんが自らの生涯を閉じた現場。
ここにあった天神踏切から彼女は線路に入ったのでしょうか。



赤いコーンがあるあの辺りのはず。
1969年6月24日の京都新聞・夕刊に「娘さん、線路で自殺」の見出しの小さな記事が載りました。
「二十四日午前二時三十六分ごろ、京都市中京区西ノ京平町、国鉄山陰線天神踏切西方二十メートルで上り山口・幡生駅発、京都梅小路駅行貨物列車=井本辰男運転手(四一)=に線路上を歩いていた若い女が飛び込み即死した。自殺らしい。西陣署で調べているが、女は年齢十五〜二十二歳、身長一.四五メートルで、オカッパ頭、面長のやせ型、薄茶にたまご色のワンピースを着ており、身元不明。」
翌日、栃木から駆けつけたお父さんにより高野悦子さん本人と確認されました。

この場所に立っていると私は、「ずっとこの場所に留っていたい」って気持ちになりました。
でも、そんなことなどできません・・・・。



川がありました。



何と!「紙屋川」です。
遠く澤池に流れを発し、「御土居」の西側の堀の役目を担ってきた川です。
澤池も御土居も、どちらも私は自転車に本格的に乗るまでは知らなかった名前です。
その紙屋川の名を、高野悦子さんの足跡を追う今日目にするとは想像すらしていませんでした。



後ろ髪を引かれる思いにかられながらJR円町駅へ。
もっとゆっくりとしたかったけれど夕刻には用事があるのです。



新しくできたて間もない「円町駅」ホームの東端から東側を望む。
現場はあの先の高架下のどこかのはずです。



強い冬型の今日、愛宕山や北山に雪が降っているのが視認できます。



京都行き電車がやって来ました。



京都駅着。
この「34番」ってホームは、日本のJR駅で最も大きな数字のホームなのです。



JR嵯峨野線ホーム。
この部分を含めると、JRの駅ではこの京都駅が日本一長い駅になるのです。



京都駅連絡通路から東側を望む。



JR奈良線乗車。



宇治に帰り用事を済ませました。
用事を終え、再度ウオーキングへ。
今日はどうしても、あと1ケ所行きたい場所があるのです。



橋姫神社前通過。



橋姫神社近くに名水跡がありました。



平等院参道横のお店ではとってもおいしそうなものを売っています。



造花かと思ったら本物の花でした。。



宇治川畔へ。
橘橋近くの宿木。



橘橋へ。



平等院・宝物殿の向こうに陽が傾きます。



朝霧橋へ。



朝霧橋上から宇治川上流を望む。



右岸の観流橋通過。



夕陽が雲に隠れてしまいました。
それでも美しい日没です。



宇治に帰ってから再度ウオーキングを開始した、その目的地へ向かいます。
本当はその場所から夕陽を見たかったんですが、厚い雲に沈む太陽が隠れてしまいました。
おそらく夕陽を眺めることはできないのが残念。
興聖寺(こうしょうじ)山門通過。



山岳遊撃開始!
大吉山を目指します。



標高を上げていくと、途中で何と!
陽がまた差してきましたではありませんか。



大吉山展望台着。
ここに今日はどうしても来たかったのです。



何故ワンゲルをやっていくのか 人を愛することが出来るために。」
1968年6月11日の日記に高野悦子さんはそう記しています。
彼女は愛宕山にも登りたかったようです。
ワンゲルに入ってから悦子さんは、日曜日ごとに山に登ったり、あるいはコンパに参加するようになります。
「自分の居場所を見つける為」に入部したようですが、初めて登る山は彼女にとっては新鮮で、この頃はとっても充実した日々が過ぎていたようです。
1969年に私は就職し、同時に大学のU部に入学。
就職とそして進学を果たした後、私はその職場で「ワンゲル部」を結成します。
山が大好きというそんなところにも、悦子さんと私との共通点があったとは・・・・。



沈み行く夕陽を眺めながら、小さな声で「山小屋の灯(ともしび)」を歌いました。
懐かしき やまごやは〜 ふもとのこみちよ〜
 想い出の 窓により〜 君を しのべば
 風は〜 過ぎし日の 唄をば ささやくよ〜♪



日没の瞬間。
胸が思い切りキュンとなりました。



薄暗くなった道をトボトボと下山。
麓の石畳の道着。



宇治橋まで戻ってきました。



黄昏時の宇治橋。



美しいお月様!








高野悦子さんが駆け抜けた青春を、私も少し遅れて走っていたんだなって実感する一日になりました。
悦子さんと一緒に京都国際ホテルのビヤホールでアルバイトしていた方が次のように書いておられます。
「色白の本当にかわいい子だった。でもいつも顔に傷が付いていた。ある時聞いてみると、何かにぶつけたと言っていた。」

当時の私自身のことも思い出しながらのウオーキング。
自転車で行こうかとも思いましたが、彼女の足跡を そして我が青春の足跡も追うことになるので、あえて自転車よりハードなウオーキングに。
歩いてみて、37年という歳月の長さを痛感。
私は大学を去って以来、広小路キャンパスには一度も足を運んだことがありませんでした。
行きたくなかった、もっときつい言葉で言えば辛いことしか記憶にない広小路キャンパスは二度と見たくなかったのです。

1967年4月8日の立命館大学の入学式で、悦子さんは男性合唱団(メンネルコール)の校歌の合唱を聞き、末川博学長の「自信と誇りを持てる人間になれ」とのことばを聞いて「そのような人間になれるように努力しよう。」と心に決めます。
亡くなった彼女の足跡を追う一環で、私が「二度と行かない」と心に決めていた広小路キャンパス(跡)に、入学した時から数えて37年という長い歳月を経て再度足を踏み入れることになりました。
そして広小路キャンパス跡に足を踏み入れて真っ先に私が感じたことは、何とも意外なことに「懐かしい!」ってことでした。
驚きました。
色んなことがあって「もう二度と行かない」と心に決めていた広小路キャンパスは、大学を去って30年近くの歳月を経た今、「ここは間違いなく私自身が青春を過ごした場所だ」と心から実感できる所に変貌していました。


山が大好きだった高野悦子さんに、心を込めてこの歌を贈ります。

♪山小舎の灯は〜 今宵
も ともり〜て
 
ひとり聴く せせらぎも〜 静かに ふ〜けゆ〜く
 あこがれは若き日の〜 夢を の〜せて
 夕べ 星のご〜と み空に 群
れとぶよ〜 ♪



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