今日は、午後遅くから明日のウオーキングの下見に京都市街南部へ行きました。
犬夜叉さんの情報で、「羅刹谷」と思われる場所の確認もできました。
人肉を食べる悪鬼が出たという羅刹谷は、今では道路になってしまっていました。(>_<)

本日の走行距離=約40km。(正確には40.56km)

2006年2月4日(土)




自宅を午後2時過ぎに出発し伏見着。
コンビナートのような、酒造工場のタンクが青空に映えます。



奈良鉄道の遺構。
渇水期の冬は疎水の水が流れない時期があります。
今は水がないので、遺構を下まで確認することができます。



ズーム!



ドンドン北上し、JR奈良線・稲荷駅構内にある国鉄最古の建物「ランプ小屋」着。



伏見稲荷大社前通過。



こちらから参道に入ると、両側にお店がありその雰囲気が楽しめます。



羅刹谷(らせつこく)と呼ばれる谷があったと思われる場所。
る時、比叡山の高僧がこの谷を通った際に息を呑むような美しい女と出会います。
その美女は実は人肉を喰らう鬼「羅刹」。
羅刹は僧を誘惑して谷の奥へと誘いました。
しかし僧は羅刹の正体を見抜いており、しかも仏の道に精進する高僧。
何ら危害を受けず、谷から無事に生還しました。
その羅刹谷は、この辺り。
犬夜叉さん手持ちの資料から割り出してもらいました。
色香に惑わされない僧都は無事生還したというけれど、あなただったら?(オイオイ)



京都国際学園着。
この京都国際学園の南東に御壺瀧大神があります。
御壺瀧大神まであと少し。
多くのサイトでは、羅刹谷がその御壺瀧大神だとされていますが、どうやらそうではないようです。
犬夜叉さんの手持ちの古資料の中に、羅刹谷の位置を示している鳥瞰図がひとつだけあり、それによると羅刹谷は東に向かって東福寺の左、つまり北側背後だそうです。
対して、御壺瀧大神は右になるので南側で方角が羅刹谷とは逆。
それに、御壺瀧大神がある谷には古くから「毘沙門谷」という名前がついているのです。



「五社之瀧」着。



お参りすることにします。



境内。



犬夜叉さんのサイトの古地図をプリントアウトして持って来ました。
それによると、御壺瀧大神はあと少し三橋川の上流のようです。
この細い道が上流側に向かって伸びていますので、この道を通ることにします。



御壺瀧大神着!



途中で激しい吹雪になりましたが、少し「雪宿り」していたらまた青空が戻ってきました。
晴れれば日差しがきついので、明るいところを走っていた目にはこの中に何があるのか全く見えませんでした。
写真を撮ってそれを見て、初めてこの中に祠があることが分かりました。



岩の奥の方にある祠。
ここが「羅刹の棲家」だと多くのサイトで紹介されています。
岩穴のような中に入りましたが何も見えません。
デジカメのフラッシュが光る前にオレンジ色の淡い光が出ますので、それでかろうじて中が見えました。
中がこんな様子だということは、写真を見るまで分かりませんでした。
懐中電灯が必要だと感じました。



岩穴から出て境内を参拝。



近くまで民家が迫ってますが、ここは古い時代のまま時間が止まったように思えるそんな空間です。



様々なポーズのキツネ様が。



御壺瀧大神を後に。
御壺瀧大神の入り口はこんな感じで民家の背後にあります。
かつては正面からまっすぐ入れたのかもしれません。



東大路通りに出て北上開始。



東山七条交差点。
ここを左折し西進します。



京都国立博物館横を曲がり北進します。
博物館の西側入り口前通過。
私は今年の3月までこの博物館のモニターを委嘱されています。
ゆえに、現在はこの博物館には入場フリーなのですが今日は時間があまりないので素通りします。



豊国(とよくに)神社着。
この唐門は伏見城の遺構と伝えられています。



豊国神社の説明板。



唐門脇のこの石灯籠は、秀吉恩顧の大名が奉献したもの。



豊国神社至近にある「耳塚」。



五条で鴨川を渡ります。
今日は猛烈な寒波がやって来ており、北山連峰が厚く雪化粧しているのが肉眼でもよく分かります。



「鉄輪(かなわ)跡」着。
ここが今日の最終目的地です。



普通の民家の玄関のような戸をくぐります。
写真に写らないようにしましたが、この「鉄輪ノ井戸」と書かれた札の左側には3軒の家の表札がかかっていました。



「鉄輪ノ井」の由来。



境内に湧く水。
縁切りに霊験があるとされている水はこれではなく井戸の水なのです。
実はこの水は京都市街地の名水のひとつで、定期的に汲みに来ている人もあるようです。



ここに現在まつられている町内の氏神である、この「命婦(みょうぶ)稲荷」は1935年に再建されました。
その工事の時に、土中からおびただしい数の鉄輪(かなわ)が発掘されたとか。



昔このあたりは「鉄輪町」と呼ばれていました。
貴船とこの鍛冶屋町(鉄輪町)、そして橋姫の祠があった宇治橋「三の間」。
貴船-鍛冶屋町-宇治は、とっても不思議な縁でつながっているのです。



鉄輪井。
1935年の工事の時に、この井戸も「霊泉」として残そうと板の井戸枠を板石にして屋根もかけられました。
「この井戸の水を飲ますと相手と縁が切れる」とのことで、以前は遠くからもこの井戸に水を汲みに来ていた人がいたそうです。
地下鉄工事の影響で水は涸れたようです。
それでも、今でも時々ペットボトルに入れた水をこの井戸の前に置いて祈ってから、そのペットボトルを持ち帰る人もいるようです。



井戸ですので当然「つるべ」もあります。



工事の時に「鉄輪塚」の石碑が発掘されたそうですが、それがこの石碑なのでしょうか・・・・・。



この向こうの石碑が鉄輪塚の石碑なのかもしれません。



民家側から見た命婦稲荷社。



命婦稲荷社全景。



鉄輪の井を後にします。



道路に出ます。
よその家の中に入っている気がずっとしているので、なるべく音を立てないように行動します・・・・・・。



帰路で市比賣(いちひめ)神社に寄ります。



境内の名水「天之真名井」(あめのまない)



名水の後ろに、なんだかぎっしりと!



「姫だるま」でした。



神社の説明板。
ここ市比賣神社では、ユニークな「カード式のお守り」も手に入ります。



市比賣神社を後にして南進。
夕暮れの伏見まで戻ってきました。



この時間帯の伏見もとっても素敵です。(#^.^#)



観月橋から西側の近鉄鉄橋を望む。
あと少しで日没。





京都の歴史の古さ。
その都には実に様々な言い伝えが残されています。
でもその伝えが残っていてもその場所がなくなると、言い伝え自体も風化していくのでしょうか。
京都に長らく住んでいながら「羅刹谷」の話は今まで聞いたことがありませんでした。

ひょんなことで存在を知った「羅刹谷」。
調べてみて そして犬夜叉さんから情報を頂いて、今はその場所は道路や民家などになっている可能性が高いってことが分かりました。
結構多くのサイトでは、稲荷社のお滝場のひとつである御壺瀧大神をその雰囲気から「羅刹谷」と混同してしまっているようです。
遠い昔のことであり確認は不可能ですが、それでも御壺瀧大神が「羅刹谷」の可能性はまずないと思われます。
御壺瀧大神を「羅刹谷」とする根拠は、私の調べた限りでは何ひとつありませんでした。
犬夜叉さんが古文書を持っておられなかったら、あるいは犬夜叉さんの指摘がなければ、おそらく私は「羅刹谷」のことが触れられているホームページの記述をそのまま鵜呑みにして、「御壺瀧大神」を「羅刹谷」としていたはず。。

それはそれとして。
犬夜叉さんの言葉「1200年の古都・京都のミステリーの探索究明は資料が少ないので難儀ですね」に大いにうなづく私です。
京都って本当にミステリアスです。



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